グラーヴェ先生は、二週間後にあった二回目のレッスンの時には、なにも言わずに私
の練習を見てくれた。多分、マリア先輩がなにかを言ってくれたのかもしれない。それ
でも、迷いながら、ぼろぼろだったフォルテールを聴いてくれただけで、感謝しなけれ
ばならなかっただろう。
 放課後には、マリア先輩と二人でフォルテールの練習をし、時には私が彼女のフォル
テールを見たりもした。学生の身分で、卒業生であるマリア先輩の練習をみるなんて、
と考えたこともあった。しかし彼女がそれを望み、私の言葉を受け入れてくれたことも
あって、いつしかそうして二人で過ごす時間が増えていった。
 彼女はいつも、本当に楽しそうにフォルテールを弾いていた。多少リズムが狂ってい
ても、多少鍵盤を押し間違えたところで全く気にせず、最後まで曲を演奏し、満足げに
微笑んだ。まるでこの世の春を謳歌するように、楽しげな旋律がフォルテールから流れ
ると、聴いていたものは思わず顔を崩し、その軽やかな音色に心を躍らせた。そして私
は、そんな彼女のフォルテールを聴くのが好きだった。

 それから、色々な話もした。
 グラーヴェ先生だけが彼女をエスクと呼ぶ理由。マリアなんてありふれた名前よりも、
エスクのほうが綺麗だ、と先生が言ったこと。彼女の名を冠した曲を作り、それを愛の
告白の代わりにしたこと。
 結婚はまだしていないが、グラーヴェ先生と一緒に暮らしていること。在学中に子ど
もが出来てしまったため、学院には全てを隠し、後に落ち着いてから全てを公表するの
だということ。その子どもの名前は、リセルシア。当時の私よりも年下に見えたマリア
先輩がすでに子を産み、育てているのだとは、彼女が抱く小さな赤子を見るまでは信じ
られなかった。

 その時からだろうか? 私が本当になにがしたいかを、気づいたのは。私のフォルテ
ールは、技術的には、それほど酷くはなかった。ただ、足りない物があった。しかしそ
れ故に、私は誰よりも客観的に人のフォルテールを見ることができたのだった。それに
気づくことができたのも、マリア先輩と、グラーヴェ先生のおかげだった。


 しかし、そんな関係は唐突に終わりを告げた。彼女の子ども、リセルシアがまだ一歳
にもならない頃、彼女は突然姿を消した。置き手紙の存在から、事件や事故に巻き込ま
れたのではないとすぐにわかったが、手紙にはそれらしい理由もなく、彼女が姿を消し
てしまったことに対し、グラーヴェ先生は平静ではいられなかった。

 ――そして、季節が巡り、私が正式にグラーヴェ先生の受け持ちの生徒となった時に
は、あまりにも彼は変わってしまっていた。それまで、私にとってその事件は、ただた
だ驚くべき事実であった。しかし先生のあまりの変わり様に、そして私にすらなにも言
わずに出ていったマリア先輩に、例えようのない怒りを感じた。

 風の噂で、グラーヴェ先生が預かっていたとされる子どもを、施設に預けたという話
を聞いた。その頃の私にはなにもできなかったが。

 その記憶も徐々に風化し、次第に忘れかけていた――そんな時だった。リセルシアを
再びグラーヴェ先生が引き取り、フォルテールの奏者として育て、ピオーヴァ音楽学院
へと入れようとしていると知ったのは。かつて彼が捨てた子どもだとは、他の誰も知ら
ない。そもそもリセルシアの存在は、ほとんどの者には知らされていなかったのだから。
しかし、そのときにはすでに、私とグラーヴェ先生の関係は、遠すぎた。過去を振り返
る暇などは、グラーヴェ先生には無かったのだろう。皮肉にも、マリア先輩を失ったこ
とで彼は、音楽会での高い地位を手に入れたから。

 リセルシアがピオーヴァに入り、それでも私とグラーヴェ先生の関係は変わらなか
った。さらに一年が過ぎ、彼女が私の担当する生徒となっても、変わらないはずだっ
た。
 ――それが、今、変わろうとしているのかもしれない。
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